「亜月が狙われているんだよ」
翔は言って顔を顰めた。
06 : 狙われた亜月
+歪み始める世界+
「アンブレラ・・・」
目の前に立つ黒づくめの女・・・アンブレラを見て、凌は顔をしかめた。
久しぶりに見る顔だが、できるだけ今は見たく無い顔。
「何の用だ?」と露骨に不機嫌な声で問いかけると、アンブレラは能面のような顔で淡々と言葉を繋いだ。
「夢・・・の話ではありませんわ、残念ながら」
「・・・」
そう言いつつもまったく残念そうな顔をしていないアンブレラに、寄り一層凌が顔を歪めた。
自然と握る拳が震える。
そうか、コイツら・・・
無意識に眉毛がつり上がる。
「こちらに匿われている和親亜月を引き取りに来ましたわ」
ほら、きた。
案の定、想定内の回答に凌はふぅとため息を着いてうなじを掻いた。
「何の事言ってんのかさっぱりなんですけどー」
「・・・夢喰いの。嘘を着く事を宜しいとは思いませぬぞ」
足下に見える小柄な男の視線を気にしながらアンブレラを見る。
「嘘っつってもなぁ・・・」と、肩眉を上げて困った顔をしてやっても、立ち尽くす二人の表情は変わらない。
退屈な野郎共だ。
腹の底でフツフツと沸き上がってくる怒りのような、焦りのような。
ゴチャゴチャに入り交じるどす黒い感情に付いていけない。
歪む表情を掻くそうと、振り返って翔を呼ぶと「何ー?」とスプーンをくわえた翔が顔を覗かせた。
分厚いゴーグルの奧の目が、凌の肩越しに黒づくめの二人を見据える。
途端、翔の顔から数秒間だけ笑みが消えた。
「俺の皿下げとけ。 お客さんだ」
「はーい」
「あぁ、それと」
部屋に引っ込もうとする翔を呼び止める。
「ゴミもちゃんとすてておけよ」
翔は「はいはい」と面倒くさそうに手を振って部屋の奥に引っ込んだ。
アイツはバカじゃない。今ので分かった筈だ。
凌は再びアンブレラたちを振り返って視線を交えた。
「話、聞いてやろーじゃねーか」
ゆっくりと、な。
+++
凌に呼ばれて少しの間だけ翔の姿が消えると、すぐ戻ってきて亜月の腕を取った。
心なしか焦っているように見える。
「翔くん?」と声を掛けようとしたら、寸での所で「しーッ」と口を押さえられた。
声のトーンを幾分か落とした翔が、亜月の耳に口を近付けてコソコソと囁く。
「blackring社の社長と補佐がここに来てるんだ」
「blackring社って・・・あの警察まがいの?」
「そう。亜月を掴まえようとしてるんだよ」
「あたし・・・?」
そう言うと、亜月の食べかけのカレーの皿を取り上げると、スプーンと共にシンクに入れる。
その皿の上に幾つか他の皿を重ねてカモフラージュする。
翔はトタトタと亜月の前まで戻ってくると、再び腕を取って窓の方まで歩いていく。
亜月は自分が狙われる理由がよく理解できないまま、翔に引っ張られて靴下のまま外へ出た。
なるほど、確かに玄関の方から凌と女の人の声がする。
こっそり覗いてみれば、高級な人形のような整った顔の女性が、不機嫌な凌と話し込んでいた。
「あれが社長・・・?」
「そう。社長のアンブレラ婦人。冷淡な人で結構有名だよ」
「すごく綺麗なのに」
「外見なんて関係ないさ。クラウディ男爵だってそうだ。見てごらんよ。彼女の足下にいるあの小さな―・・・」
不意に、翔が言葉を切った。
どうしたのかと亜月が見下ろすと、分厚いゴーグル越しに、焦りの表情が見える。
何が・・・とアンブレラ婦人の方へ視線を向けると。
「おや、おでかけですかな」
アンブレラ婦人の足下。
太股にも達しない身長の小柄な男の瞳が、静かにこっちを見据えている。
吸い込まれそうなほどのその黒い瞳に、ゾクリと背中の毛が逆立つ。
「あ・・・」
「見付かった!!」
「走って!!」と亜月の手を引っ張る翔は、背中に背負っている“天才”の文字がプリントされている鞄から何やら丸い物を取り出す。
思いっきりそれを地面に叩き付けると、バシュンッと煙を上げて視界を妨げた。
「すごッ?! 翔くん忍者?!」
「ご託は良いからさっさと走って!! サーカスのテントまで逃げ延びればオスカーさん達が守ってくれる!!」
「ちょッ ちょっと待ってよ翔くん!!」
何であたしが?!
分からないよ。本当。こっちの世界は何が何だか分からないよ。
誰も親切に説明してはくれない。
一つ聞いたらその問いに対して曖昧な回答だけが返ってくる。
どうして?どうしてあたしがこんな事に巻き込まれているの?
まるで映画の撮影みたいに、次々と翔が投げつける煙幕の中を走り抜ける。
息が切れて肺が痛い。
何で何で何で何で。
何でこんな事に・・・
「亜月!!」
不意に振り返った翔の驚愕の顔に吃驚する。
何?今度は何があったの?
ゴーグルの奧の瞳に攣られて後ろを向くと、そこには宙に浮いたクラウディ男爵の姿。
大きなシルクハットの下から、吸い込まれそうな黒い瞳が覗いている。
「掴まえましたぞ」
ガッとクラウディ男爵の小さな手が、思いもよらない力で腕を引っ張る。
思わず「イタッ!!」と顔を歪めてしまう。
じわ、と視界が歪むほど、それは痛くって。
慣性でつんのめった体が傾く。
倒れる・・・ッ
衝撃に備えて自由な方の手を顔の前に持ってくると、すぐ近くで何かを弾く音がした。
左腕の圧迫感が消え、代わりに傾く体を支える暖かい腕の感触を感じた。
「おいおいアンタ、ウチの従業員に何してくれてんだ?」
聞き慣れた声に強く閉じていた瞼を開くと、やっぱりそこには紺の髪を靡かせる凌が悠然と立っていた。
「凌ッ」と翔の嬉々とした声も聞こえる。
パンパンッと快気な音がして振り返ると、スーツの埃を払うクラウディ男爵と、黒い日傘を差して歩み寄ってくるアンブレラ婦人が見えた。
ついさっきまで「綺麗だ」と口にしていた彼女の表情が、身震いするほど恐ろしく思える。
「下がってろ」と背中を押してくる凌の顔つきが、神妙で、真剣。
いつもとのギャップに、少しだけ凌が遠のいた錯覚がした。
少しずつ後ずさりする亜月の手を、翔が握る。
「走るよ」
再びテントに向かって走り出す二人の後を追うようにアンブレラ婦人とクラウディ男爵が一歩足を踏み出すが、「おい」と淀みなく響く凌の低い声に、ピタリを動きを止める。
「アイツらは、追わせねーぜ」
「・・・そこをお退きなさい夢喰い屋の店主。これ以上の抵抗は反逆と見なし、例え稀少種族の貴方だろうとblackkingdomに連行しますわよ」
「知ったこっちゃねーな。別にどこだろうと生きてる内はこの世は地獄だ。変わらねぇさ」
「・・・人生に絶望しているようですな、お若いのに」
クラウディ男爵の凄みのある声に、凌が睨みを返す。
「てめぇに何が分かる。俺の事も、翔の事も・・・亜月の事も」
強い眼光を灯す左目は、憎しみに溢れかえった紅色。
つり上がった眉毛や、への字に閉じられた唇が凌の怒りを露骨に表している。
「もうてめぇらの好きにはさせねぇよ」
フッと一瞬、凌の姿が消えた。
+++
「オスカーさん!! ベーカーさん!!」
「うわわわッ?!」
突然テントに飛び込んできた亜月と翔の二人に、入り口付近で夜に向けての準備をしていたベーカーが驚いて、ダンボール一杯に詰め込んだジャグリングのピンやボールを取りこぼした。
色の薄いジーパンに、白いYシャツを着込むベーカーはピエロ服よりは幾分ハートマークが少ないが、頬のハートのボディペイントは変わっていない。
「あ〜ぁ、散らばっちゃった」
ガシガシと困ったように頭をかくベーカーを見て、一気に力が抜けた。
そんな様子の二人を見て、首を傾げる彼は「とりあえずどうぞ」と体を退けて中へ入るよう促した。
それに従って中へ入ると、夜見た時とはまた一味違う派手なテントの装飾が見える。
散らばった荷物を拾い上げながら、ベーカーが「何かあったのかい?」と見上げてきた。
緊張感のなさに緩んでいた体がまた引き締まる。
そうだ、凌がまだ・・・!!
亜月が焦った表情でベーカーの服を掴んだ。
「ど、どうしようベーカーさん!! 山本が!!」
「? 凌がどうかしたの?」
心なしかベーカーの顔が強ばり、ボールを拾い上げる手が止まる。
慌てて言葉にならない亜月を押し退けて、翔が「blackring社が来たんだ」と続けた。
確実に、ベーカーの顔が歪む。
「早いな・・・随分と」
「凌も予測はしてたんだけど、気付かれるまで1週間くらいは見積もってたんだ。こんなに早く見付かるとは思ってなかった」
苦虫を噛み潰したような顔をする翔。
「・・・とりあえず、凌一人はキツイな・・・俺も行って」
「その必要はねーよ」
立ち上がりかけたベーカーを制止する声。
3人の視線が向けられた先には、息を乱してテントのポールに寄りかかる凌の姿。
体の至る所に傷を負っていて、その中でも一番深いものが切られた左脇腹の服の下から覗いていた。
それを見てベーカーが駆け寄る。
「凌、一人で婦人と男爵を相手にしたの?もっと他にも・・・」
「どーしろって言うんだよ。コイツら逃がすのに精一杯だっつの」
顎をしゃくって翔と座り込んだ亜月を示す。
ベーカーはそれもそうか、と言った顔を作り「中に」と凌を引っ張り込んだ。
数回テントの外を見まわして首を引っ込める。
それから奧の部屋へ通され、丁度その時、団服より幾分ラフな格好をしたオスカーが姿を現した。
「おや。やはり凌でしたか」
落ち着き払った声で微笑むオスカーは凌の傷口も諸戸もせず、少し高い所にある棚から包帯と消毒液を引っ張り出した。
「何で分かったんですか」と亜月が尋ねれば、「鼻は良い方だと言ったでしょう?」と笑むオスカー。
「酷い傷ですね。アンブレラ婦人ですか?」
眉を顰めるオスカーに「あぁ」と低く唸る凌。
さっきの出来事に怒っているのか、傷口に塗られる薬の痛みに耐えているのか、深く眉間にしわが刻み込まれている。
亜月はそんな凌の背中を、ベーカーに勧められた椅子に座ってただ見つめるばかりだ。
頭が痛い・・・
小さく息を吐き出して、頭痛を気付かなかった事にする。
こんな痛み、山本の脇腹の傷に比べたら・・・
そう思うと弱音なんて吐ける筈がなかった。
山本はあたしの所為であんな傷を負ったんだ。
でも、何で?
ふと当初の疑問を思い出す。
翔は亜月を掴まえに来たと言っていた。
それがどんな理由でかは分からない。
けど、きっと山本は分かってるはずなんだ。
擦り傷だらけの背中を見据える。
―寝ろ―
そう言う凌の声を最後に、昨日の夜亜月は2度目の睡眠を迎えた。
決して本意ではなかったが、不思議と凌の掌に“起きる”と言う意思を吸い込まれていくような、そんな感覚でいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
だから聞きそびれてしまったけれど、あの時の凌の哀しそうな瞳。声。表情。
それから何かを覆い隠しているという疑惑。
きっと、あたしを従業員にした事と今回の事は関係があるはず。
でもどうしてか聞きたくない。
聞きたくないんだよ、山本。
「亜月」
ぼうっと考えを巡らせていた亜月に声を掛けたのは紛れもない凌で。
驚いて顔を上げるといつもの無表情に戻ってる彼がオスカーから借りた黒の無地のシャツに袖を通している。
ドキっとした。
その口から綴られる次の言葉に予想がついたから。
「お前に、言わなきゃならねぇ事がある」
「良いの?凌」と労るベーカー。
「いずれは言うべき事ですよ」と哀しそうに笑むオスカー。
「・・・」何も言ってくれない翔。
あぁ、ねぇ聞いて。
その先の言葉を、あたしは聞きたくないんだよ。
「悪い、亜月・・・ずっと、黙ってた」
凌の顔が、また歪んだ。
さっきみたいに痛みに耐える顔だったらどれほど救われた事か。
しかしそんな亜月の願いも虚しく、凌の顔は明らかに哀しいに歪んでいた。
唇から紡がれる言葉に、思わず耳を塞ぎたくなる。
「お前の父親は闇の住人の悪魔で・・・犯罪者なんだ」
パキ・・・ン、と心の奥で、何かが割れた。