「凌を監視するためにいる」
紅色の髪の男ははっきり言い切った。




12 : 神子現る




+監視の目+


「獏・・・てめぇの胃袋を満たすためだけに夢を喰む者」


男はゆらりと歩を進めた。
その度に、腰にぶら下がる二本の刀がガチャリ、と擦れる。


「強欲が故に絶滅寸前に追い込まれた種族」


微かな風に靡くは派手な赤い髪。
シャラン、とその赤髪に刺さっているのは、一本の簪。
男はブーツとコンクリートのぶつかるコツコツと言う音を聞きながら、目の前にある学校を見上げた。


「いや、今はこの代名詞で指せる奴もそうそういねぇか。そうだろ凌?」


色の薄いサングラスの奧の細い目が、更に細められた。


「久しぶりになるな。アイツに会うのも」




+++




落ちる。落ちる。夢の底に。
心地良い浮遊感と共に、冷たい底に落ちる、落ちる、落ちる。

凌は静かに瞼を閉じて、自分を迎え入れる深い眠りに沈んでいった。

体の芯から、冷たく沁みる深海に浸かるように、ただ自然と浸っていく。
冷たくて、気持ちいい。
この感じを知っている。
あまり深くまで入り込むなと前にハルに言われた覚えがある。


ハル・・・


まるで父のような人・・・

ぼうっとする。
深く息を吸って吐き出した。
冷たくて冷たくて、しかしその冷たさが肌に触れることがひどく心地良かった。

と、その時。


「山本ォォ!!」


脳に直接たたき込むような大声と共に、脳天に渾身の一撃が降り注ぐ。
「ぁでッ?!」と変な声を上げて凌が顔を上げると、そこには数学の教科書を手に仁王立ちしている担任の姿。
一瞬あれ?と首を傾げ、そう言えば記憶置換で学生になっていたことを思い出す。


「お前なに寝てんだぁ?! 数学のテスト毎回赤点だろぉが!!」

「赤点? あぁ、丸ばっかで解答用紙真っ赤って事?」

「バカ言ってんじゃない!! バツばっかで解答用紙真っ赤だコノヤロウ!!」


そう言って数学の教科書を振り下ろす担任。
凌は振り下ろされた教科書を咄嗟に掴んだ。
担任の向こうには、苦い顔をした亜月がいる。
そんな亜月の前の席からは巫人が苦笑を零していた。


「もういいじゃないすか先生。数学なんて人生に必要ないっすよ」


現に数百年要らなかったし。と呟く凌に、担任越しの亜月がしー!!と口元に人差し指を当てた。
「んだよ」と亜月の反論しようと体を乗りだした。


「大体」

「数学なんざ必要ねぇよなぁ。同感だ」


凌の言葉を遮る声がして振り返ると、どこからやって来たのか、窓枠の上に一人の男が座っていた。
派手な赤い髪を簪で結い上げ、薄いサングラスの奧からは鋭い眼光が放たれる。
手には抜き放たれた刀が二本。

「おまっ」と立ち上がる凌に、その男は容赦なく斬りかかった。
切れ味のいい刃は机と椅子を真っ二つにし、凌の腹に蹴りを食らわせ、凌は壁の瓦礫に埋もれた。
クラス中が驚いて逃げまどう中、反射的に立ち上がった亜月と巫人、そして優生が後方へ吹っ飛んだ凌に駆け寄る。


「山本?!」

「お、おぉ?! 大丈夫かよ!!」

「あぁ? なんだそいつらは。オイ凌!!」


「ギャーギャーうぜぇよ」とまだ眠たい声で反論する凌が、教室の壁の瓦礫から身を起こした。
目の前にしゃがみ込んでいた優生の肩を掴んで体制を整える。


「てめー何しに来た。つーか勝手に学校来てんじゃねぇよ。誰が記憶置換し直すと思ってんだコラ。そして好い加減その挨拶の仕方やめやがれ」

「どこに行こうが俺の勝手だろ。ってか実際の所全部てめーんトコのガキがやってる事じゃねぇか。その記憶置換はよぉ」

「え、これ翔くんがやってたの?」


吃驚する亜月に、男は再びギロリと視線を向けた。
蛇のようなその眼差しに、緊張が走る。

しかし話の飲み込めない巫人と優生が困惑した表情が凌と亜月と飛び込んできた男を見比べる。


「ちょ、どういう事だよ・・・知り合い、なの?」

「和親も知ってるのかよ?」

「え、あ、いや・・・」


困ったように凌を見る亜月に、「今はほっとけ」と冷たく言い放つ。
どっちにしろ記憶置換するんだ、話しても意味がない。
そう言いたげな瞳で微かに顔をしかめる凌の意図を読み取って、巫人と優生に向かって「ちょっと今は」と言葉を濁した。
そんな亜月を見て、男が顔をしかめる。


「で、てめぇは何なんだ?」

「え、あ、あたし?」

「ウチの雑用係だ。それよりオイ。えーっと、えーっと・・・名前」


眉を顰める凌に、「てめぇ俺の名前忘れたのか!!」とキレるその男。
「名前忘れるとか、そりゃねぇだろ」と背後にいる優生が呟くと、ちゃっかりそれを聞いていた凌の鉄拳が飛んできた。
そんな4人に更にイラッとした牟白がガスン!!と刃を床に突き立てた。


「宮武牟白だ!! 牟白!! 忘れてんじゃねぇよこのバカが!! そして人を無視すんじゃねぇ!!」

「バカは余計だバカ。んな事より何だよ、何しに来たんだよ」


「折角深い眠りを堪能してたのによぉ〜」と顔を顰める凌の目元には、やっぱりくまがある。
相当眠いんだろうな、と亜月は思った。
牟白と名乗った男は刀を腰の鞘にしまうと、近くの机の上に腰掛けた。


「そういやてめぇは寝てばっか居るって聞いたな・・・知らねぇのも無理はねぇか」

「オイ、何の話だ?」

「俺やてめぇにはあんまり関係ねぇ話なんだが、最近てめぇが例の女をやっと取り戻したって聞いてよ・・・つか、コイツか?まさか」


眉を顰める牟白が、亜月を見下ろす。
例の女って・・・何、それ。
亜月も意味が分からず問い詰める目で凌を見れば、また彼特有の無言の強制が黙っていろと視線で語ってくる。
それにふて腐れた顔を返した。


「んで?俺が亜月を従業員にしたからって、何があんだよ」

「人間の魂狩りだ」

「魂狩り・・・?」


ガン、と机の上に胡座をかく牟白。
それを見据えながら、凌も埃を払って近くの机を引っ張り出して座り込んだ。
生憎、それを咎める先生も居なければ、生徒もいない。
いつの間にか教室の外へ避難してクラスには亜月、凌、牟白、そして優生に巫人以外に誰も残っていなかった。
しかも優生も巫人も大人しく凌と牟白の話を聞くばかりで邪魔するつもりはないらしい。
ただ、流石に「魂狩り」と言う単語にうろたえているようだった。

警察呼ばれたりとかしないのかな。と亜月はふと思う。


「ここんとこ、都心を中心に罪人・・・いわゆる悪党って輩の魂が、肉体を残してすっぽり抜け堕ちるっつー事件が多発してんだ。ついこの前はここから数キロと離れてねぇとこでも三件は起こったらしい」

「ふーん」

「それだけじゃねぇぜ?今闇の世界は今まで以上に均衡を崩し始めている。どっかの誰かが人間狩りをやってるようだしな」


「そりゃ魂の話とは別件か?」と凌が問えば、牟白は「おそらくな」と頷いた。


「魂の方は、一見無差別にも思えるが共通点がある。それに比べ人間狩りは半端じゃねぇ冷徹さだ」

「・・・」

「それこそ視界に入った通行人を全て殺していく勢いらしい。あのサーカス野郎どもには聞かなかったか?」

「いいや、聞いてねぇな」

「そうか・・・まぁ、一応忠告だ・・・無駄な心配だったみてぇだがな。そのツラじゃ万引きすらできねぇ口だろ」


ふっと笑う牟白。
亜月は一瞬ドキっとした。
そう言えば、凌が言っていた。
闇の住人と人間のハーフは、罪の塊なのだ、と。

何も言わない亜月に痺れを切らせたのか、牟白は一つ大きな欠伸をする。


「凌。先にてめぇの店に行ってるぜ」

「あ? まだ何かあんの?」

「うんにゃ、別に何にも」

「は?」


眉を顰める凌に、立ち上がった牟白がさも当たり前のようににやりと笑って言いはなった。


「家出してきたから。これから暫く厄介になるぜ」


「はぁ?! またかよ!!」と驚いて立ち上がる凌に、牟白は「宜しく頼むぜ」と手を振って再び窓から飛び出していった。
「待てコルァ!!」と窓辺に駆け寄る向こうには、地面に着地して悠々と歩く牟白の姿がある。


「ここ・・・3階・・・」


呆然と立ち尽くす亜月。
その後ろには同じく吃驚した顔で窓の外を見つめている巫人と優生がいる。
凌は露骨に脱力すると窓枠に縋るようにしゃがみ込んだ。
あまりの脱力に亜月がオロオロしていると、「帰るぞ」と低い声で凌が言い放つ。
眠たい目で崩れた壁を振り返るとふぃ、と指を振った。
指の先の壁は、独りでにガラガラと浮き上がるともと在ったようにピッタリはまった。


「うわぉ・・・魔法?」

「すげぇ!! どうなってんだ?!」

「バーカ。そんじょそこらの魔法使いと一緒にすんな」


次に机がガタガタと元に戻ると真っ二つになっていたそれらも元の状態に収まった。
それを見ながら転がっていた鞄を持ち上げる凌が何事もなかったように教室のドアの方へと足を向けた。
しかし、その前に立ちはだかるように進み出た巫人に、ふと歩を止める。


「説明してくれよ、山本」

「説明も何もねぇよ」

「ちょっと待てよ!! そりゃねぇだろ?! 突然乱入してきた奴と知り合いだったり、魂狩りだとか人間狩りだとか、そんな話聞いてはいそうですかってなるわけ・・・」

「あぁもううっせぇなぁ」


面倒臭そうに顔をしかめて鞄を肩にかけ直すと、凌は勢いよくガッと二人の顔を掌で覆うように掴んだ。
二人も最初は「なにすんだよ!!」とか言いながら抵抗するものの、凌の腕を掴んでいた手の力が段々抜けていき、ついにはぶらりと垂れ下がった。
それを確認してから凌が囁くように言う。


「お前らは何にも見てねーし、聞いてねー。居眠りしてたんだ、いいな?」


最後に少し、二人の顔を強く掴むとゆっくり手を退けた。
ぼうっとした顔で立ち尽くしている二人に、パン、と一回手を叩くと凌は何事もなかった様にその横を通ってクラスの外へ出て行った。
慌ててそれを追いかければ、教室を出た直後、廊下一杯に先生が怯えた顔で立っているの見える。
隣のクラスも、その隣のクラスも生徒の姿はない。
きっと避難させたんだろう。
当たり前だ、日本刀をぶら下げた男が突然入り込んできたんだから。

まずいんじゃないのコレ。

凌を見上げれば、至っていつもの無表情のまま、歩み寄ってくる担任を見据えている。


「山本、和親、怪我はないか? 樋上と榊原は・・・」

「あぁ、大丈夫っすよ。あの二人も」

「そうか、さっきの男はまだ中だな? 警察には今電話して・・・」

「必要ないっす」


は?と顔を上げる担任の額に人差し指を突くと、担任は目を見開いてまるで力が抜けたように呆けてしまった。
「何したの」と言い掛けた亜月の前から、一瞬消えた凌が次々に先生達の額を同じ様に人差し指で軽く突く。
元の位置に戻ってきた凌は、「さてと」と面倒臭そうな顔をして少し考え込んだ。


「そうだな。突然飛び込んできたボールがガラスを割って、早とちりした先生が警察に電話した。っと・・・そんなんでいいか?」

「・・・は?」


「なんか不自然な点ある?」と聞いてくる凌に、「全部」と言ってやりたかったが、返答など求めていないらしく、凌はパン、と先程と同じ様に手を叩いた。
呆けていた先生達がはっと気付くと同時に、凌が歩み始める。


「そんじゃ早退しまーす。オラ行くぞ亜月」

「えッあ、うん」


記憶置換って色々な方法あるんだ・・・と思いながら、前を悠然と歩く凌に慌てて着いていった。




+++




「んで、お前いつまで居座る気だ」


ソファに深く座った凌と牟白が火花を散らしながら会話している。
いや、むしろ第三者から見れば相手の胸中の探り合いのようなものだった。
亜月も翔も居心地が悪く、少し離れた所で何に遠慮してか正座して座っていた。

しかし牟白はまったく気にしている様子もなく、「そーだなー」と首を捻らせる。


「軽く50年」

「ふざけんな唐辛子頭」

「んだとコラ!!てめぇだって微妙な色してんじゃねぇか!!銀色はどうした銀色は!!」

「それは半世紀前の話だ。あったま古いんじゃないの〜うっわ〜」


半世紀前って・・・つい最近まで銀色だったじゃん。
サラッとウソついてるし。
傍で聞いている亜月と翔が冷や汗を垂らす。
相変わらずの無表情で牟白の罵声をのらりくらりとかわす凌は、ふと思い出したように「そういえば」と呟いた。


「学校でぼやいてた魂狩りと人間狩りの話、もっとよく聞かせろ」

「誰に命令してんだてめぇ・・・!!」

「唐辛子」

「死ね!!」


再び刀を抜く牟白を亜月と翔が慌てて制止し、話を逸らそうと「貴方も闇の人なの?」と亜月が尋ねた。
すると牟白はじっと亜月を見据える。
頭の先から指の先まで、体内の全てを把握するように蛇の如く鋭い瞳が亜月を捕らえた。


「違ぇ」

「え・・・?」


予想外の言葉に、驚いた。
闇の人じゃないなら、何なんだ。
凌と話している内容はあからさまに人間の世界のものではないし、その紅色の髪はあまりに人の枠を越えている。

亜月の視線に気付いたのか、牟白はわざと簪を揺らすと「よく聞け」と低く唸った。


「俺は闇の住人じゃねぇ。歴とした人間だ」

「でも・・・」

「ソイツの言ってる事は間違っちゃいない。実際にソイツは人間だ」


「ちょっとばかし特殊だけどな」と目を細める凌。


「どういう事?」

「俺は神に愛され、人間でありながら人間ではない存在。“神子”だ」

「かみご・・・?」

「肉体の強靭さ、回復力、そして長い年月をゆるやかに生きる事からは人間離れしてるけどな」

「ふーん・・・じゃぁなんでわざわざ闇の住人なんかになってるの?」

「俺があえて闇の世界に身を置いているのは他でもねぇ」


ビシ、と眠たげな目をしている凌を指さす牟白。


「コイツの、見張りをするためだ」


一瞬だが、凌から漂う空気が冷たくなった気がした。


「見張り・・・?なんで・・・?」

「コイツが稀少種族だからに決まってンだろ?」

「稀少種族?獏ってそんなに少ないの?」

「はぁ?何言ってんだ?」


顔を顰める牟白に凌が「オイ」と声を掛けるが、彼は言葉を止める事なくはっきり言い切った。


「日本の獏家・・・つまりは、本家自体が凌を残して全滅しただろうが」


掠れた声も出なかった。
だって、そんな事一言も言ってくれなかった。

亜月が凌を振り返れば、不機嫌な顔を露わに、牟白を睨み付けている。
その真剣な表情が、牟白のそれを嘘ではないと物語っていた。
「凌・・・」と呟く亜月に、うっすら瞳を向けた彼のそれは「奧に下がれ」と言っている。
それに従う事しか出来なくて、翔の手を握って廊下へ出た。




+++




牟白と凌だけの部屋は、ひどく重い空気が漂っていた。
それこそ殺気にも似た視線が、牟白に突き刺さる。
それに冷や汗を垂らしながらも、同じ様に彼もまた凌をにらみ返した。


「牟白」


いつになく低い声。


「お前、どういうつもりだ?」

「・・・何が」

「とぼけんじゃねぇぞ。何で亜月に獏家の事を言った」


鋭い紅色の視線に、息が詰まる。
威圧感だけは、いまだに健在だな・・・この野郎は。


「何だ。隠しておきたかったのか?」

「・・・アイツには、まだ言う必要はねぇはずだ」

「信用がないからか」


ぴく、と凌の眉がつり上がる。


「てめぇはいつもそうだ。常に誰かと敵対する事を望むくせに、誰かを救おうとがむしゃらになる。矛盾だらけだ」

「・・・それを人に言われる筋合いはねぇよ。とくにお前には死んでも言われたくねぇ」


引きつった笑みが零れる。
ギラギラ光る瞳に、牟白が眉間に皺を寄せた。


「やっぱり信用のならねぇ野郎だ。その目にゃ危険な色が含まれすぎている・・・」

「・・・」

「てめぇの目は、昔のそれとなんら変わりねぇ」

「・・・何が言いたい」


凌の瞳に微かに戸惑いが見えた。


「凌。てめぇは一体何がしてぇんだ」

「・・・」

「あの女・・・亜月と言ったか。アイツを手中に入れてどうする気だ?」

「お前には関係ねぇんだ、余計な詮索はするな」

「あれは、傍に置くだけで罪人になるんだぜ? 闇と人のハーフはそれだけ下等な生き物だ。何故わざわざ15年も待って傍に置く必要がある」


その物言いについにカッとなった凌が、立ち上がって牟白の胸ぐらを掴んだ。
ダンッと勢いに任せて、壁に牟白の背中を打ち付ける。


「貴様に何が分かる。俺の生き方をとやかく言う権限なんてないだろ」


瞳孔の開いた瞳を見詰める。
コイツ・・・憤って口調が昔のころに戻ってやがる。
腐っても13代目獏家当主か・・・怒ればしっかり威厳があるじゃねぇか。
「分かったよ。悪かった」と素直に折れれば、暫く牟白を睨み上げた末、凌は震える拳を降ろして深くソファに座り直した。

疲労困憊した体をゆっくり横たわらせて、「泊めてはやるが、今は俺の前から消えろ」と言い放つ。
しかしそれに無言を返す牟白は、動こうとはしない。
不思議に思って視線を上げる凌と顔をしかめる牟白の視線が交わった。
互いに互いの心情が理解できないような表情だ。


「凌・・・俺はてめぇが特別嫌いじゃねぇが、俺にはてめぇが理解できねぇ。それだから故に、俺はてめぇの行動を把握する必要がある」

「・・・」

「てめぇは。てめぇのその目は、危険すぎる存在なんだ、凌」

「分かってる・・・」

「次にその右目が暴走しても、俺は止めてやれる自信はねぇぜ」

「あぁ・・・それも、分かってる」


牟白の瞳が常に閉じられたままの凌の右目を見据えた。
凌はふ、と視線を落とすと「寝る」とだけ伝えて瞼を閉じた。




+++




どうして山本は何も言ってくれないんだろう。
亜月は「ここ、お前の部屋だから」と言われて凌から貰った部屋で一人、蹲るように座り込んでいた。
前まで住んでいた施設に近いアパートは売り払われ、荷物もおおかたこの部屋に運び込まれている。
ダンボールや物で散乱する部屋の隅で、亜月は揺れるカーテンを見上げた。

今思えば、こっちの世界を説明してくれたのは、みんな凌じゃない誰かだ。
blackkingdomやblackring社の事を説明してくれたのは翔で。
闇の世界の大方の事を教えてくれたのは、オスカーやベーカーだ。
そして、獏家のことを、ちらっとではあるが、教えてくれたのは牟白。

どうして凌は、抽象的な警告以外に何も言ってくれないんだろう。

山本は今まで何回も助けてくれた。
でも・・・本当に、山本の事を信用していいの・・・?

ぐらり、と頭が揺れるような思いが浮かび上がった。