黒い屋敷に、染まらぬように・・・




32 :開戦




+相手+


「この子・・・」


ベーカーが小さく呟くと、ピエロの帽子を深くかぶって凌の脇を通り過ぎる。
慣れた手付きで黒いコートを脱ぎさると、いつものハートづくしの団服が姿を現した。

にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべて、ベーカーが腰を折る。


「俺の名前はベーカー・D・ブランチ。よろしくフィーュ?」


一瞬キョトンとした少女、チュリルは同じように笑い返してツギハギのぬいぐるみを抱き抱えた。


「あたしチュリル。お兄ちゃん、チュリルと遊んでくれるの?」


幼い笑みに答えるようにベーカーも優しい笑みを零す。
「先に行ってていいよ」と振り返るベーカーが、部屋の奥に見える扉をさした。


「この子の相手は俺だから。先に行ってて?」

「しかしベーカー・・・」

「大丈夫だよオスカー」


「ね?」とにっこり笑うベーカーに押されるように、扉へと歩き始めた。
後ろ髪を引かれるジェスカとチェスカの頬に軽くキスをして、背中を押した。
チュリルは彼らを通す事について何も言わずに見送っている。

凌はふと振り返ると、ベーカーに囁いた。


「死ぬんじゃねーぞ」

「分かってるよ」

「あと、殺すなよ」

「・・・うん」


自信なさげに笑うベーカーの肩をぽん、と叩いて凌も皆と共に扉の向こうへと消えた。


「さぁ、始めようかフィーュ」




+++




「ほぉら。チュリルがあの子とぶつかったわ」


紅茶のカップを片手にクスクスと笑みを零すリーテ。
同じ丸テーブルについているのは、倖矢、そしてガットだ。

彼女の脇には椅子に座らず待機している夜魅の姿がある。


「読み通りね。もっとも、向こうにとっても彼とチュリルを当てるのは望んでいたのでしょうけど」

「・・・呑気だな。部下の9割はもうすでに蜘蛛の毒で動けねぇってのに」


リーテたちのいる部屋には、沢山の悶え苦しむ部下の姿があった。
それを冷めた目で見下ろすガットは、頬杖をついて紅茶に手をつけようともしない。


「・・・これも、予想の範囲内か?」

「いいえ。ちょっとこれには驚いたわね。月喰みの“女郎蜘蛛”はかなり有名な情報屋よ。普通情報屋って言うのは利益で動く中立的な立場の筈だもの。まさかここまでするとは思ってなかったわ」

「その割には随分冷静じゃねーか」

「あら、貴方もじゃない」


にっこり笑うリーテに顔を気分を害したガットが眉を吊り上げる。

これだけの部下が苦しんで居る中、自分は結界の中に入って蜘蛛を避けている。
現に今この部屋のこの丸テーブルの半径5メートルには魔法陣のような文字の羅列が描かれていて、蜘蛛はそこから中に入ってこようとはしなかった。

胸くそわりぃ女だぜ。

いつもニコニコ笑っているくせに、いざと言う時保守的になる。
部下の事なんてそっちのけだ。
まぁ、blackkingdomの幹部なんてみんなこんなもんか。


「俺はblackkingdomなんかどうでも良いって言ってんだろ、何度も言わせんな」

「・・・そんな恐い顔で睨まないでちょうだい。それに何をしようと貴方はここを出られないのよ?」

「うるっせぇ。誰が何と言おうと俺はwhiteに戻ってみせる」

「あぁもう頑固なんだから。ねぇ倖矢?」


無言で様子を伺っていた倖矢は不意に振られた会話に眉を顰めると、ガットを見据えた。


「リーテの言い分も、先輩の言い分も俺は分かる。だが元々、天使はwhiteに悪魔はblackにあるべきじゃないのか」

「でもblackkingdomを抜けだそうなんて無理よ。長年ここの幹部をやってるけど一度だってそんな人は見たことないわ」

「なら俺がその一人目になってやるさ」


ふん、と鼻を鳴らすガットを横目に倖矢がテーブルに視線を落とした。
丸テーブルの中心は、まるでスクリーンのように透けて、このblackの屋敷を映していた。

そこに、扉を抜けた凌たちが映る。


「あら、そろそろ夜魅の出番よ」

「・・・はい、姉上」

「いってらっしゃい」


柔らかい笑みを零して見送るリーテ。
それに恭しく腰を折って挨拶する夜魅は魔法陣の外へと足を踏み出した。

途端、蜘蛛が一斉に夜魅に飛びかかる。

しかし一匹も夜魅に触れる事は適わずに真っ二つになって地面に落ちた。
きーきーと蜘蛛らしかぬ声を上げる。
そんな蜘蛛たちを無視して、キン、と腰の日本刀を納め、そのまま何事もなかったように部屋を出て行った。


「・・・相変わらず無口な奴だ」

「しょうがないのよ、あぁ言う子なの」

「カッ。くだんねェ」


椅子を倒して立ち上がるガットに、リーテが「もう行くの?」と声をかける。
ポケットに手を突っ込んだまま魔法陣の外へと歩をすすめる彼は「あぁ」と小さく返事をした。


「こんな呻き声のうるせぇとこにいたらノイローゼになりそうだぜ」

「あらそう? でもまだ貴方の出番じゃないわよ」

「うるせーなホントにてめぇはよぉ」


一歩、魔法陣の外へ踏み出したガットに蜘蛛が襲い狂う。
しかし両方のポケットに手を入れたままの彼はそのまま蜘蛛が飛びついてくるのをまった。

ガットの首筋や腕に噛みついた蜘蛛たち。

倖矢とリーテがその光景を静かに見ているが、ガットは倒れる事もよろける事もなくその場に立っていた。
やがて、ガットではなく蜘蛛が震え始めて床にポトリと落ちる。
その場でガットに噛みついた蜘蛛たちが数匹悶え始めた。


「まずいだろ? 俺の血はよぉ」


苦しむ蜘蛛を一匹踏み潰して、ガットが笑う。


「俺に毒殺は無理だぜ? そーゆー体になってんだ」


「まさにミイラ取りがミイラだな」と吐き捨てて高笑いを残し、ガットが扉の向こうへと消えた。




+++




オスカーがちらりと来た廊下を振り返る。
心配そうなその顔色をうかがって、亜月は眉をひそめた。

身勝手についてきたけど、あたしに出来る事なんて何一つないんだ。

足手まとい以外の何者でもないと分かっているから、余計に声を掛けづらい。
何も出来ない。
それが悔しくもあって、安心していた。

ごめんなさい。
すごい卑怯な事だけど、今は・・・

自分の事しか考えられない。

俯いたまま進む亜月にちらりと視線をやった凌が、軽く顔をしかめた。
それを見たイガラはククッと冷笑し、不意に立ち止まる。


「ここでお別れだぁ獏」

「あ? 何言ってんだよ、ダーツのトコに行くんじゃねーの?」

「あぁ行くよぉ。けどそれには貴様らはお荷物だぁ」


「んだと?」と青筋を浮かべる牟白を制して、凌が視線でイガラの話を促す。


「幹部の方は任せたさぁ。私はダーツの首を刈りにいく」


今まで持っていた鎌がキラリと黒光りする。
凌はそんなイガラにあっさりと「あっそ」と返事をすると踵をかえす。

皆が驚いたのは言うまでもない。


「待ってください凌!!」

「そうよ!! 私たちに幹部を相手にさせといてコイツ逃げる気よ!!」

「逃げる訳じゃない。ダーツの所には一人で行くと言ってるんだぁ」


「物わかりの悪いお嬢ちゃんだねぇ」とジェスカを見下ろすイガラの瞳は冷たい。
ゾクリ、と背筋を凍らせてチェスカの手を強く握るジェスカ。
オスカーは慌てて二人の前に立つと、イガラがふっと視線を逸らした。


「オイ、本気か凌。コイツ・・・とことん俺らの事利用する気だぜ」


腰の二本の刀に手をかけて、牟白が威嚇するようにイガラを睨み付ける。
凌はそんな牟白を見て面倒くさそうに首筋をかいた。


「別に良いじゃん。コイツにだって色々事情があんだ。それにオスカーたちはblackkingdomが潰れりゃいいんだろ?」

「しかし・・・」

「ダーツは死神だし、相手にすんのは面倒だからイガラに任せときゃ俺たちにとっても楽でいいじゃねーか」


「死神にたてついて生きてられんのなんか死神くらいだ」と皮肉ぶる凌。
亜月は凌の影にかくれてイガラを見た。
さきほどの殺気はその瞳になく、冷静に凌の事を見据えている。


「それに面倒事嫌いなんだよねー俺。さっさと帰って寝たいわけ」

「・・・お前そっちが本音だろ」


「バレた?」と白々しく薄く笑う凌。
牟白はそんな様子の彼に脱力し、刀に添えていた手をどけた。


「オーケー・・・いいだろう。好きにしろ。俺ぁもうどうでも良くなってきた」

「じゃぁここでイガラとは別行動ってわけで」

「安心しろぉ。ダーツを殺したら無事全員ここから帰してやる」


「生きているにしろ、死体にしろここにあるのは邪魔だからなぁ」と歪な笑みを最後に残し、イガラが黒い霧のように霧散して消えた。
傍にいた無口な子供もいつの間にか姿を消している。

凌はそれを確認してからまた歩き始めた。

しかし、その歩はすぐに止まる事になる。
入り組んだ屋敷の廊下の右曲がり角から、すっと音もなく現れたソレは漆黒の髪を靡かせて凌たちの前に立ちはだかった。


「・・・・・・紺條夜魅だ。オスカー・D・ブランチと手合わせ願いたい」


すっと背筋の伸びた物静かな男。
黒い着物を纏ったその男は紺條夜魅と名乗った。

オスカーが静かに前へ出て、にっこり微笑みかけると優雅にお辞儀した。


「オスカー・D・ブランチは私の事です。よろしくお願いします。Mr.紺條」


いつものように微笑みかけるオスカーが、ひどく恐かった。
身震いするほどの殺気が立ち込めている事が、亜月でも分かった。

思わず傍の凌のコートを掴む。

震える手がコートを掴んでいる事に気付いた凌が、オスカーに向かって「先に行ってるぜ」と言い放ち、亜月を庇うように歩き始めた。
それに続く牟白、チェスカ、ジェスカ。
チュリルの時のように、先へ進む事を拒む事をしない夜魅。

そのまま廊下を進んでしまおうと少し足早になった凌が、一瞬目を見開いて勢いよく体を横へ反らした。

コートを掴んでいた亜月もつられて反り返り、驚くより先に耳に劈くような音が響いた。
パァァン!!と耳鳴りを起こすんじゃないか、と思われるこの音に聞き覚えがある。
廊下の少し遠巻きにいるオスカーや夜魅までもが振り返り、音を発した主へと視線を向けた。


「遅ぇじゃねぇかぁ獏!! 待ってたぜぇ?!」


黒い皮のブーツを引き摺って廊下に姿を現したのは、他でもないガット・ビターだ。

見事な金髪を後ろへ掻き上げ、はだけた漆黒のYシャツの下にはしっかり引きしまった筋肉が見える。
右足のホルダーから抜き去った鍵は既に銃の形をしていて、その銃口から硝煙がたなびいている事からさっきの発砲はやはりガットのものだと分かる。

凌は微かに顔をしかめると、体制を立て直した。


「・・・相変わらずうるせー奴」

「カッ!! てめぇは相変わらず死にそうな顔色してんなぁ!!」


にやりと笑う彼が、更に凌たちとの距離を詰める。
牟白が刀に手をかけた。


「よォ、退屈させんなって言ったろ?」


不意に耳元で聞こえた声に、硬直する。


「今度は加減なしだ」


パァァン!!

快気な音が廊下に響きわたった。