神に会った夜 : 疲夜 :




    

空気を含む荒い呼吸音を繰り返し、少年は走った。
雪の積もった白い道なき道を裸足で進み、所々に出っ張っていた枝が肌を切る。
彼の頭の中にはたった一つの感情しかなかった。

恐怖。

「森の奧だ!! 奧に逃げたぞ!!」と追っ手達の声が聞こえてくる。
少年は手に抱えた震える子犬をきつく抱きしめ直す。


「大丈夫」


自分の発した声が思っていた以上に震えている。
説得力なんてないだろうけど、ごめん、これくらいしかオレには出来ない。
「足跡を追え!!」とフィルターに掛かったように遠くから聞こえた声。
だめだ、雪の上だと逃げた方向が分かる。
せめて、コイツだけでも。
少年はしゃがむと子犬を地面に降ろした。


「逃げるんだ。出来るだけ早く、出来るだけ遠くに」


クゥン・・・と足に擦り寄ってくる子犬の頭を撫でて、少年は目を細める。


「ダメだよオレとはこの先一緒に逃げられない。追っ手が来る」

「ゎん」

「お前は悪くないよ、将軍の籠の前を通っただけで殺されるなんて間違ってる」


そうだろ?と毛並みを優しく撫で、子犬を押した。
逃げろ、と。


「オレは大丈夫。ちゃんと逃げ切るから、お前もちゃんと逃げるんだよ」


最後に小さく微笑んで、少年は子犬に背を向け走り出した。
背後から小さく子犬の鳴く声が聞こえるがやがてそれもなくなり、その場を離れた事を知る。
大丈夫、大丈夫。逃げ切るんだよ。


「いたぞ!! そこだ!!」


突然聞こえてきた声にハッとして振り返ると、数人の侍が手に抜き放たれた刀を持って、ジリジリと少年との距離を詰めてきていた。
きらりと光るその刀身に震え上がり、尻餅をつくと侍達が歪んだ笑みを零して歩み寄ってくる。
逃げなきゃ、と頭では思うのに思うように体が動かなくて後ずさりすら出来なかった。
しかしそんな思いにも関係なく刀身は無情に振り下ろされる・・・




+++




「おや」


ポイズンは長い灰色の前髪を掻き上げて、白い雪を赤く染め上げているそれを見下ろした。
少年の小さな体は、青白くなってしまっている。
すっかり冷え切ったその遺体の傍にしゃがみ込み、血で顔に張り付いた黒い髪を退けてやる。
深く傷を負った体や右目はひどく残酷で。


「可哀想に・・・殺されたのか」


静かにその遺体を抱え上げると、ポイズンはその場を離れた。




+++




体の芯まで冷え切っていた体が除々に温もりを取り戻した事で、指先や足先にむずがゆさを覚えながら、少年はゆっくり瞼を開いた。
暖かいその部屋は見たこともない器具が並べられていて、上半身を起こしては辺りを見渡した。
自分の体を見下ろすと、白装束に身を包んでいて死んだにしては透けてない・・・と首を傾げる。


「起きたか?」


ガラガラと変な音と共に聞こえた声の方を見れば、灰色の髪を持った一人の男が妙な機材を運びながら姿を現した。
右目にだけ布を巻いたその男は、柔らかく笑んで少年の元へ足を運ぶ。
ギシ、と少年の隣に腰を下ろした。


「具合は?」

「・・・」

「・・・可笑しいな、喉が上手く治っていないのかもしれない」


「確かに直した筈なんだが」と首を傾げる男を見据え、恐る恐るといった感じで問いかけてみた。


「アナタは・・・誰なんですか」

「おや?なんだ話せたのか」


「良かった良かった」と言う彼は、目元にちらつく灰色の髪を退けると、その秀麗な顔に淡く笑みをたたえた。


「そう警戒するな、私はお前を生き返らせてやっただけのしがない医者だ」

「そ、そんな事・・・できるわけ」

「可能だから、今ここに君が居るわけだが」

「・・・じゃ、じゃぁ本当に・・・?」

「あぁ。君は私の患者1号だよ・・・そうだ、名前をあげよう。生きていた頃の君とは別人なのだから」


何がいいか、と首を傾げる男は暫しの後その端正な唇を開く。


「疲夜にしよう。いいかね?」


確認するように復唱してから彼を見た。
「私はポイズンだ、よろしく疲夜」と手を差し出す彼が、ひどく神々しくて。
まるで神様みたいだ・・・
そう思ったのを今でも鮮明に覚えている。

博士。
オレはアナタのくれた恩を忘れはしません。
オレをあの寒い所から救ってくれたアナタは、人が何と言おうとオレの神様です。

疲夜は今でも彼の傍にいる。
病院を切り盛りして、ポイズンに忠実なまま。

それはまるで崇拝のように。